2018年09月03日

『神戸』第一話 奇妙なエヂプト人の話 西東三鬼

 昭和十七年の冬、私は単身、東京の何も彼もから脱走した。そして或る日の夕方、神戸の坂道を下りてゐた。街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思ひであった。その晩のうちに是非、手頃なアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住ひの女が居る筈である。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出て来たのか、バーに働いてゐさうな女が寒さうに急いでゐた。私は猟犬のやうに彼女を尾行した。彼女は果して三宮駅の近くのバーヘはいっだので、私もそのままバーヘはいって行った。そして一時間の後には、アパートを兼ねたホテルを、その女から教はつたのである。

 それは奇妙なホテルであった。
 神戸の中央、山から海ヘー直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれてゐた)の中途に、芝居の建物のやうに朱色に塗られたそのホテルがあった。

 私はその後、空襲が始まるまで、そのホテルの長期滞在であったが、同宿の人々も、根が生へたやうにそのホテルに居据わつてゐた。彼、或ひは彼女等の国籍は、日本が十二人、白系ロシヤ女一人、トルコタタール夫婦一組、エヂプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった。十二人の日本人の中、男は私の他に中年の病院長が一人で、あとの十人はバーのマダムか、そこに働いてゐる女であった。彼女等は、停泊中の、ドイツの潜水艦や貨物船の乗組員、か持ち込んで来る、耀詰や黒パソを食って生きてゐた。しかし、そのホテルに下宿してゐる女達は、ホテルの自分の部屋に男を連れ込む事は絶対にしなかった。さういふ事は「だらしがない」といぱれ、仲間の軽蔑を買ふからである。

 その頃の私は商人であった。しかし、同宿の人達は、外人までが(ドイツの水兵達も)私を「センセイ」と呼んでゐた。(何故、彼等がさういふ言葉で私を呼ぶやうになったかについては、この物語の第何話かで明らかになる。)
 彼女達は「センセイ」の部屋へ、種々雑多な身辺の問題を持ち込んで来たし、県庁の外事課に睨まれてゐる外人達は、戦時の微妙な身分上の問題を持ち込んで来た。
 私の商売は軍需会社に雑貨を納入するのであったが、極端な物資の不足から、商売はひどく閑散で、私はいつも貧乏してゐた。私は一日の大半を、トーアロードに面した、二階の部屋の窓に頬杖をついて、通行人を眺めて暮すのであった。

 その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現はれた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくってゐる時でも、身の廻りの物を全部脱ぎ捨て、六尺禅一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の随を軸にして、そのままの位置で小刻みに身体を廻転し始める。生きた独楽のやうに、グルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の暇と、窓から見下ろす私の限が合ふと、彼は「今日は」と挨拶した。

 私は彼に、何故そのやうにグルグル廻転するかと訊いてみた。「かうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答は大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」といふ。つまり彼は、私達もさうしたい事を唯一人実行してゐるのであった。彼は時々「あんたもここへ下りて来てゃってみませんか」と礼儀正しく勧誘してくれた、が、私はあひかはらず、窓に頬杖をつぃたままであった。
 彼が二十分位も廻転運動を試みて、静かに檻播をまとって立ち去った後は、ヨハネの去った荒野の趣であった。それから二年後には、彼の気に入りの場所に、天か
ら無数の火の玉、が降り、数万の市民が裸にされて、キリキリ舞をしたのである。

 下宿人のヂプト人マジット・エルバ氏は私の親友となった。彼は当時日本に在留する唯二人のエヂプト人の一人であった。いはゆる敵性国人であったが、引き揚げなかった他の英米仏人達と同様に、旅行は許されなかったが、神戸市内では一応自由であった。彼はこの奇妙なホテルでの、最も奇妙な人物であった。商売は肉屋で、山の手の通りに清潔な店を持ってゐたが、もう商品はカラッポであった。彼はその店に独り住む事を好まず、わざわざホテルに滞在してゐた。年は幾つなのか、さっぱり見当がっかないが、多分四十歳そこくであったらう。小麦色の彫りの深ト顔には、いつも髪の剃り跡が青々としてゐた。恐ろしく胸の厚い男で、まるで桶の胴のやうであった。かういふ放浪者に似ず、英語も日本語も下手糞であった。日本滞留十年で、ヨーロッパ、アメリカ、南米と流浪の末、日本神戸に根の生へたエヂプト種の強い蘆である。私は青春時代を、赤道直下の英領植民地で暮したので、彼のコスモポリタン気質はよく判った。彼のお国自慢は、名前のエルバに由来し、彼の説に従へば、彼は正しくナポレオンの追放された島の出生だといふのである。彼は何度もこの話をしたが、その時の彼はナポレオンの落胤のやうな顔をした。

 マジツトも私も貧乏だったので、夜は大抵どちらかの部屋で、黙って煙草を吹かすのが常であった。私の部屋には十数枚のレコードがあった。それは皆、近東やアフリカを主題とした音楽で、青年時代からの、私の夢の泉であった。私達は、彼が何処からか探し出してくるビールを、実に大切に飲みながら、一夜の歓をつくすのであったが、彼はレコードの一枚毎に「行き過ぎの鑑賞」をして、砂漠のオアシスや、駱駝の隊商や、ペルシャ市場の物売婆を呼び出し、感極まってでたらめ踊りを踊り、私はそれに狂喜の拍手を送るのであった。さういふ我等を見守るのは、どのやうな神であったか、所詮は邪教の神であって、一流の神様ではなかったであらう。

 神様としへば、マジツトは回教徒で、宗門の戒律は厳重に守ってゐた。或る時、彼は歯槽膿漏が悪化して高熱を出し、頬を腫らして遂に市民病院に入院した。私は親友のために、毎日一度づつ手料理を作って自転車で運んだが、或る日、マツシュド・ポテトを作り、うっかりベーコンを刻み込んだまま彼の枕頭に供した。彼は歓声を上げてロー杯に頬張ったが、ウッといふ声と共に全部吐き出し、大急ぎで含漱をした。ベーコンは豚で、それは回教徒のタブーである。彼は世にも情ない顔をして
「セソセイ、ダレニモイフナ」と云った。

 このエヂプト人が、どこから生活費を得て来るのか、誰にも判らなかった。彼が時たま、牛肉の大塊をホテルの厨房に売りっけると、翌日の新聞に、姫路郊外で耕牛が一頭盗まれ、加古川の河原で密殺された記事が出るのであった。哀しきヂプト人は、独特のルートから、さういふものを仲買してゐたのであらう。彼は随分窮乏してゐたが、一度も私に金を貸せと云はなかった。私の貧乏をよく知ってゐるのだ。彼の入院中、私か当時の金て五十円作って見舞のっもりで与へたら、退院するとすぐ「ワタシビンボウ、センセイビンボウ」といって返してよこした。さういふ彼に、私には合点のゆかない意外な大金がはいることがある。彼は忽ちサルタンになって、日頃のウツプンを一夜にして放散する。いつも文無しの彼を軽蔑してゐる同宿の淑女達の中で、最も若く、最も豊満な一人を選んで、彼女のバーに押しかけ、札びらを切った末、どこかの小テルで一夜を明かして来るのだ。翌日、彼女は忽ち富み、彼は再び貧しい。あまりの事に柄にもなく私か忠告がましい事をいふと、彼は得意のウインクを一発放って「オーマー・カイヤム」と呪文のやうに、ペルシャ楽天詩人の名を称へ、あまつさへ、マリ子が水を飲むと、透き通った咽喉を、水の下りるのが見えた等とのろけるのであった。

 マジツトにはカイロに富商の伯父があるとかで、その伯父さんが、日本に足止めを食らって窮乏してゐる甥に大金を送って来ますやうにといふのが、彼のアラーの神への日夜の祈祷であった。彼に従へば、その金額は、十人のマリ子を一年位満足させるに足りるのであった。送金ルートは国際赤十字、スイス公使館、或ひはドイツ潜水艦が密輸して来るかも知れないといふ。勿論それは追ひっめられた彼の白昼の夢にすぎないが、私はその実現を彼のために切望した。それといふのも、彼は一着だけのフラノのズボンの膝に穴が開いてきたので、膝のあたりでチョン切ってショートパンツに改造し、厳寒の候、広間のストーブに当る始末であつたからだ。しかし、彼の胸板は依然として厚く、髪の剃り跡はいつもの通り青々としてゐた。

 マジツトはのべつ嘘をついた。彼の各国漫遊談は、その嘘が混じるために、実に独創的で、新鮮で、いつまで聞いてゐても飽きなかった。だから私は、それは嘘だらう等とは決して云はなかった。このエヂプトのホラ男爵は、第一次世界大戦の時、エヂプト軍の軍曹であったといふのである。驚いた事にそれは真実であった。彼は全世界を流浪中、英国風の、エヂプト軍の軍服姿の写真を一枚、肌身離さず持ち廻って来たが、或る時それを「イチバントモダチセンセイ」に進呈するといって私に呉れた。だから、後年剃り落した真黒い八字髭を左右に撥ねた彼の写真は、かくして今も私の机辺にある。
 彼は砂漠の一戦以来「ドイツハテキ」と肝に銘じたらしく、ドイツ潜水艦の水兵達が、ホテルのロビーでビールを飲んでゐると、私に意味深長なウインクを送るのであった。ドイツ兵達は、豊富な食糧をかゝへ込んで上陸し、ホテル住ひの淑女達を奪ひ去るのだから、マジツト・エルバの強敵にちがひない。彼はドイツ水兵の身体に密着した上衣や、途方もないラッパズボソを批評して
「オぺラヘイタイ」と称して軽蔑してゐた。彼の説によれば、立派な兵隊は、桶の胴のやうな胸を持ち、おしゃべりであってはならないのだった。実際、ドイツ水兵は饒舌家揃ひであった。私は窓からいつも観察するのだが、彼等は坂の下から二人づつ上って来る。両手には陸上で一泊するための食糧の他に、どうして手に入れるのか、何人分かの食糧を抱いて来る。彼等は歩きながらも、顔を相手のに向けて絶えず話しつづける。ホテルに来てからも、そこがロビーで往来とちがふだけで、彼等は前の通り話しつづける。艦の中でも同じであらう。私はドイツ人種が多弁人種とは知らなかったので、呆れかへってゐたから、エルバ氏の批評には全く同感であった。
 彼は日本の戦争については、固く沈黙を守ってゐたが、私にだけは時々低い声で「ニホンカワイソウ」とささやいた。それは、大戦果々々々で日本中が有頂天の時であった。

 ホテルで、マジツト・エルバ氏に好意を持ってゐたのは、私の他に老マネージャーであった。この白髪の好人物は、パパさんの愛称で内外人に愛されてゐたが、ホテルの持主の義弟で、その持主は没落しかかつてゐた。そしてホテルは既に新しい経営者の手に移ってゐたが、パパさんの人望は高く、この老人を首にするなら、わたし達も出てゆくといふ、女客達の強硬な申入れのために、老マネージャーは元のまま深夜まで働いてゐた。月末が来ると、この善人はマジツト・エルバの勘定を少なくするために心肝をくだくのであった。老人の長男は、少女のやうな妻と赤ん坊を残して既に戦死してゐた。私はストーブの傍にパパさんとマジツトが黙って椅子に掛け、心中互ひにいたはり合ってゐる姿をよく見かけた。私達三人は話が合ったのである。

 ホテルの下宿人の中で日本人は殆どがホテルの食事に頼ってゐたので、彼等を食はせるだけでも、老マネージャーの苦労は並々ならず、その過労と、彼自身の悲運のため、一夜、気の毒な老人は、帳場の椅子に掛けたまま、心臓瓶庫で頓死してしまった。その通夜の席に集った女達はみな泣いたが、中で最も大きな声で号泣したのはマジツト・エルバであった。この異邦人は、死者の足の裏を自分の黒い額に押し当てゝ慟哭した。老いたる親友の厚情に報ひ得なかった彼は、せめて最後に、老友の足で額を踏みっけて貰ひたかったのであらうか。

 この難破船のやうなホテルは、それから二年後に、跡形もなく焼けてしまった。戦後九年、エヂプト人、マジツト・エルバ氏の消息は全く絶えてしまった。

(「俳句」昭和29年9月号)


西東三鬼『神戸』全話掲載

《俳句・昭和31年6月号》連載終了

西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1 日)岡山県出身の俳人。

日本歯科医専卒。本名、斎藤敬直。新興俳句運動の中心となるが、京大俳句事件で検挙。戦後「天狼」「断崖」を創刊。句集「夜の桃」、随筆集「神戸」「続神戸」など。

posted by pengiin at 14:06| Comment(0) | 図書と文庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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