2018年10月01日

『続神戸』西東三鬼 第一話 マダムのこと

『続神戸』西東三鬼
前説。
 かつて私は綜合俳誌「俳句」に、「神戸」十話を連載した。
 それは昭和十七年から昭和二十一年まで、神戸で過した間の挿話である。
「神戸」に登場した人々は、内外人すべて善人ばかりで、同時に戦争中の「非常時態勢」に最も遠い人達である。
私も亦、彼等と共に、自由こそ最高の生甲斐と考えていたので、彼等の生き方に深い興味を持った。
「神戸」は意外に多くの愛読者を得た。映画化の話ももたらされた。さて、本誌編集長は、いまや「神戸」続編を強要してやまない。
しかし、「神戸十話」を書きしるした時と、現在とでは、私の住居、境遇にも大きな変化があり、加うるに老頻、ペンの泉も涸れ果てた。
再びの無頼文章が、読者の一顧を得られようとは思われないが、幸いにして「からきこの世」の一微笑ともなればと、恥多き愚談を綴るのである。
内容は前編と同じく全く虚構を避けた。さればゆめゆめ、誓子先生のごとく、眉に唾を附け給うことなかれ。


第一話 マダムのこと
 昭和三十四年五月某日、東京の夕刊紙「Nタイムス」は、丹羽文雄原作、大映映画「夜の闘魚」のモデルについて、詳しい記事をかかげた。この映画の主演女優は京マチ子であったが、私は原作も、映画もみていない。それにもかかわらず、私かこの夕刊紙の記事にしばらく没頭したのは、これこそ「夜の闘魚」のモデルとして紙面に現れた写真の女を、よく知っていたからである。
 N紙の記事によると、現在の彼女は三十九歳で、東京赤坂のナイトクラブCのマダム、そのナイトクラブの一夜の収入は百万円、彼女は日支混血の夫を持ち、一児の母とある。
 東京のナイトクラブには、一流といわれるもの二、三あって、殆ど外人と三国人といわれる人達が客である。ところが、こういう外人達が費消する金は、日本の政商が接待費、運動費から払うのであるから、賠償問題や、防衛庁の機種問題がグズつけば、それだけナイトクラブが繁昌するのである。
 N紙は「一夜の収入百万円」と書いたが、これは少なすぎる。私はかつて東郷青児夫妻、令嬢たまみ、横山白虹、阿部金剛の一座に伍して、赤坂の別のナイトクラブに行ったことがあるが、一人あたり一万円では済まなかったろう。ナイトクラブの一夜の客が、百人ということはないから、実際の収入は百万円の三倍位、一ヶ月では億とい数字である。
 ナイトクラブがいくらもうけようと、私の知った事ではないが、そこのマダムがC子だという事になると話は別である。私が神戸トーアロ―ドの、やくざな国際ホテルの止宿人になったりは。昭和十七年十二月であった。前編との重複を恐れず、モのいきさつをかいっまんで書くと、東京と家族からの脱出、アパート探し、そのためバーに行って女の人に心当りを聞く。その女が(デンマーク人ベツク氏の仮妻で、のちにこの夫妻とは親交を結んだ)国際ホテルのC子(即ち現在の百万円マダム)に紹介してくれたのである。
 翌日、私は紹介の名刺を持って、そのホテルのC子なる人を訪問した。ドアの外まで激しいジャズが聞こえた。日本が米英に宣戦したのは、前年のことである。これぞ神戸の神戸たる所以と、待っていると、ドアが開いて、C子が怪冴という顔を出した。あとでわかったが、C子を訪問するのに、紹介状を持参したのは、あとにも先にも、私一人であった由。C子は後々まで、彼女に礼儀を示した私を、大いに徳とした。
 C子は私の来意をきくと、すぐ帳場に引き合せ、自ら部屋の鍵をうけとって、案内してくれた。
その日から一年間、私はその奇怪なホテル兼アパートの住人となったが、止宿人は日本人男性が私と伝染病院長の二人きり。日本人女性七人は、すべてバーで働く人。その中でC子は 二十五歳ですでに加納町のバーのマダムであった。日本人以外は、エヂプト人(敵性国人として監視されていた)白系ロシア、トルコタタール等々、従ってそのホテルのロビーには、戦争中の事ではあり、何をやって食つているのか見当もっかない人間がゴロゴロしていた。商売が明らかなのは、バーで働く姐御達だけで、「明らか」という意味は、戦争前から神戸のバーの女性は、客と一夜を共にするビジネスを持っていたのである。

 前編で告白したように、私はホテルに落ちつくや否や。アッという問に、横浜出身の波子と同棲するハメになった。
日本人で、とにかく一組の男女が住んでいるのは、私達の部屋だけであったから、朝寝坊の姐御達が起き出す昼過ぎから夕方まで、私の借りた二室はたちまち彼女達のクラブになってしまった。
 C子は仲間の中で、最も異彩を放っていた。神戸のような植民地風の街で、二十五歳でバーのマダムになるのは、相当な度胸と、頭脳と、何よりも彼女自身に、体の魅力が備わっていなければならない。
 ロビーで踊る時、C子の顔は私と同じ高さにあった。胴がっまって脚が長いので、体の重心が上の方にあり、男にとって踊り憎かった。C子は、仲間の女と踊る時いつもリードしていたから、「先生」即ち私と踊る時にもリードしたがった。鳩胸から巨大な乳房が突き出ていてその胸で押しまくり。長い脚で大きなステップを踏んだ。

 神戸のバー族は、どういうものか。東京の男性に抵抗が弱かった。
 C子には、東京から来ている若くて美貌の恋人があった。彼は小説家としてC子の好奇心を満足させていた。ロビーのストーブの傍で、彼は「東京からまだ原稿料が来ないよ」などという。彼はその言葉がC子を喜ばせ、他の女達を畏敬させることをよく知っているのだ。私は介の商人という触れ込みだったから彼は安んじて法螺を吹いていたが、彼が一枚の原稿も書かず、従って一銭の稿料も期待していないことを私は知っていた。彼は東京郊外に妻子を置いて、いまだに自由な神戸に、放蕩するために来ているにすぎない男である。彼が実際に小説家なら、戦時下のそのホテルの、異様な生活者達を見ながら、淫楽呆けの欠伸ばかりしている筈はないのである。
 美貌の若者は、時々東京へ金を作りに帰った。
 C子は夜中の二時頃、いつも泥酔して帰り、きまって私の部屋のドアを乱打した。彼女は波子に夜食をねだり、紙幣の充満した、大きなハンドバッグを、翌日まで私に預けた。ダブルベッドのある彼女の居室には、どのような深夜の訪問者があるかも知れず、その男にベッドの半分を与えても、ハンドバッグの中味だけは、安全な場所に置かねばならないからである。

 恋人が東京に帰っている間、C子は私服憲兵や、外事課の警部等に、延滞している接待をせねばならなかった。彼等は、C子のバーでヘドを吐くまで飲み、そのあとでホテルの彼女のベッドの客となった。すべて役得、無料であった。そういう事はC子にとって日常の事で、十年も前からの、彼女の税金であった。彼等はC子をいたぶったが、あべこべに彼女に飼育されていたのだ。
 C子は山口県の海村で生れ、早く両親を失っだので祖母に育てられた。幼い頃からの男まさりで、男の子をいじめて泣かすのが、何よりも好きであった。夏は朝から夜まで海の中で過したが、十四歳の時、泳ぎ疲れて岩の上にいた彼女の股間からしづかに血液が流れ出た。男の子達はおどろいて彼女を家まで守って帰った。祖母は赤飯を炊き、仏前に灯明をあげた。男の子逢は、そういう老婆とC子を、戸口に群がって不思議そうに眺めた。
   十六歳の春、大柄のC子は、神戸に来てバーで働き出した。その第一日に、外国船の船員が、彼女を女にした。
 その後の十年足らずに、「神戸のC子」と呼ばれるように成熟した。彼女には、瀬戸内海に面した海村にいる
 「おばあちゃん」以外にこわいものはない。      
 酔って帰ったC子は、度々私の部屋の居間で寝た。シャワーを浴びた雫を、全身から垂らしながら、バスタオルで私に拭かせた。
 「波子さん、ごめんなさい」クックッと彼女は笑った。波子も笑った。
 C子が寝落ちてから‐‐‐夜中の三時頃が多かったが‐‐‐隣室のベッドにいる私は、彼女の寝言で眼をさますことがあった。それは大概、乱暴な英語であったが、時には「おばあちゃん」といった。
 彼女は、近頃の言葉でいうと、八等身であったし、若いながらに貫録十分であった。また、大いに野心家でもあった。
「うち、成功する」と、度々私に告げた。自主とか、独立とか、およそ神戸の姐御らしくない言葉が、彼女の口から出た。言葉だけでなく、必ずチャンスをとらえた。
 チャッカリ娘のC子の弱点は、男が好きでたまらぬ事で、東京の恋人の前には、桜井楽団の桜井潔もその一人であった。
桜井が大阪り劇場に出演する時には、神戸の彼女の部屋に泊らせた。すでに市中では食料が乏しかったが、どこから探し出すのか、彼女は卵の厚焼を、このヴァイオリン弾きのために作った。そういう時、C子は私の料理場を使った。ギッチョの彼女は、鰹節のダシを取り、それで卵をのばし、フライパンで少しずつ焼いて、それを重ねた。道具は洋食ナイフ一本である。私は度々見学したから、今でも卵の厚焼は上手に出来る。
 桜井楽長の弁当は、東京でも、大阪でも得られない物が一杯っまつていた。彼女はそれを持うて、いそいそと大阪まで通った。
 或る時、東京の恋人の訪問が、あまり長く途切れたので「首に縄をつけて連れてくる」といい出した。そして「いやといった時の用心に」先生即ち私に同道して貰いたいという。
 私は折角逃げ出した東京へ、しかも板張列車で行くのは何とも気がすすまなかったが、波子が横浜の母親に会いたいといふので、三人で横浜まで行った。
 私はグランドホテルに若い「小説家」を呼び出し、C子の前で、彼女の意を伝えた。
青年は神戸に来ることを約東したので、私達は、翌日再びゴトリゴトリと神戸に帰ったが、C子は恋人と一夜を過したので気が済んだのか、神戸に帰ると早々、今度は大阪のぼんぼんにのぼせ上った。
 そういう時、彼女は必ず私を渦中に引きずり込むのである。そして、これも必ず起る情事のトラブルを解決するのに利用するのである。私の人情馬鹿が、すっかり見透かされていたのだ。
 東京青年が颯爽と現れた時、鍵をかけたC子の部屋にはぼんぼんがいた。彼女は私の寝室に跳び込んでベッドにもぐりこむ。東西の青年が、私の部屋になだれ込む。三人共。全く黙っている。勿論私も黙っている。波子は平気で猫の蚤をとっている。
 翌日、刑罰はC子に下された。東京青年が、ジレットで、彼女のデルタを剃って東京へ引き上げた。C子はわざわざそれを見せに来て波子に筆と硯を借り、一時を糊塗したようである。
 戦争が終った時、私は山の手のガンガラガソと広い西洋館に住んでいた。その一角は突き出して焼け残った。C子をはじめ、ホテルの姐御達が避難して来たので、私は花壇をつぶして栽培した馬鈴薯を早掘りして、彼女達を養った。それもすぐなくなる頃には、善良な男達が、どこからともなく現われて、それぞれ食料らしきものを、彼女達に供えた。

 一ヶ月後には、潮が引くように女達は消えていった。その家は階上二室、階下三室、他に八畳敷の使用人室がある。一室十畳敷以上、広間は二十畳敷位で、一望焼野原の神戸を見おろして、波子と二人住むには勿体ないと思っていると、忽ちC子が、例によってチャンスをつかんだ。
 或る日、C子はイタリー人の仮妻の友達と二人で現れ、黙って一万円の札束を差し出し。私の顔をみながらニヤニヤしている。
彼女の説によると、この西洋館を私から又借りして、広い室は仕切って小部屋にし、今からホテルにするのだという。
すでにアメリカ軍が神戸に進駐していたので.C子は彼等のために、ホテルと酒を用意し、大いに稼ぐのだが幸い「先生」は英語を話すから、さしづめマネージャーになって貰い、あとは「妾たちにまかしておいて」と淡々としている。

 戦争は終わったが、前途暗胆たる私に、一万円(現在なら百万円だろう)は有難いし、ホテルのマネージャーも悪くはない。歯科医もやったし、商人もやった。何も彼も新規まき直しとゆこう。OKで、敷金の一万円はパアと消えた。
 C子とその友達は、早速、大工など連れて来て、山手ホテルのプランは着々進行したが、ホテルの従業員がすべて女で、彼女達もホテルに住み込むことを知った時、私は愕然とした。C子はチヤブ屋開業のつもりである。そして、私は売笑窟のマネージャーにされかかっている。
 
  いくら新規まき直しでも---と、私はC子に解約を申し出た。
 「だから先生はあかんのよ」と、彼女は波子をかえりみながらいった。波子も全く同感という顔をしていた。
 さて解約はしたが、一万円がない。一ヶ月の余裕を貰って、ようやく返済したが、どうやってその金が出来たか、今、どうしても思い出せない。
 
  沢木欣一が「赤門文学」に書いた、自伝小説の中に、神戸の私らしい人物が、キャバレーの支配人になっている。これは途中で消滅したこの「山の上ホテル」のことが、誤り伝えられたのであろう。
 
 小心な私は「危険な曲り角」を曲らなかった。そのために、その後は、ゆるやかな危険に、常に身をさらしているのだ。
 チヤブ屋が挫折したC子は、それならとばかりにドイツ水兵の子を産んだ。初めての生産である。しかし、彼が祖国に引き揚げると、子供は「おばあちゃん」に進呈し、現在の夫を捕えて、東京と神戸とかけ持ちでバーを経営していたが、
遂に初志をつらぬいて、東京で第一流のナイトクラブのマダムとなったのである。
 私はまだその後の彼女に会つていないが、今や「うち、成功したんよ」と、いうかどうか、多分いわないだろう。

     《「天狼」昭和34年8月号掲載》

「神戸」全十話は青空文庫にまだないので、校正中の原稿を先月このブログへ掲載しています。
posted by pengiin at 14:02| Comment(0) | タロットカード制作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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