2020年05月27日

「美について」サマセット・モーム

 長いあいだ私は、人生に意義を与えるのは美のみであり、地球上に次から次へと出現する各世代に与えるべき唯一の目標は、時々でいいから芸術家を世に送り出すことだと、考えていた。芸術作品は人間の活動の頂点に立つ産物であり、人間のあらゆる悲惨さ、終わりなき労苦、裏切られた努力もこれによって遂に正当化される、と考えていた。〔中略〕それのみが人生に意味を与えうる芸術作品の中に美しい生き方も含めることで、私はこの極端な考えを後になって修正したけれど、それでもなお私が尊重しだのは美であった。しかし、このような考えを、私はかなり以前に全て放棄してしまった。

9F27F292-2E45-419F-A70A-6A500685A2D5.jpeg


 第一に、美は終止符だと分かった。美しいものを見ていると、私はただただ感心して眺めているしかないのだった、それか与えてくれる感動は素晴らしいか、感動は持続しないし、無限に感動を繰り返すことも出来なかった。それで、この世の最高に美しいものも結局私を退屈させた。試作品からならもっと長続きする満足が得られるのに気付いた。完璧な出来ではないので、却って私が想像力を働かせる余地があった。あらゆる芸術作品の中で最高の作品においては、あらゆるものが表現されているので、私か出来ることは何もない。そこで私は落ち着きを失い、受身で眺めているのに飽きてしまう。美は山の頂上のようだと思った。そこまで辿り着いたら、後は下りるしかない。完璧というのはいささか退屈である。誰もが目標としている最高の美は完璧に達成されないほうがいいというのは、人生の皮肉の中でもかなりひどいものだ。


 人は美という言葉で、審美感を満足させる額神的ないし物質的なもの「大抵は物質的なものだが」を意味していると思う。だか、これでは、水が意味するのは濡れたもの、と言うに等しい。〔中略〕私が気付いた奇妙なことは、美の評価には永続性がないという点だった。どこの美術館へ行っでも、ある時代の最高の目利きが美しいと判断したのに、現代の我々には無価値と思える作品で一杯である。私の生涯の間でも、少し以前まで最高とみなされていた絵画や詩から、美が日の出の太陽の前の白霜のように蒸発するのを見た。〔中略〕得られる結論はただ一つ、美は各時代の要求に関わるものであり。我々が美しいと思うものを調べて、絶対的な美の本質を探すのは無駄だということである。美が人生に意味を与える価値の一つであるにしても、それは常に変化しているものであり、それゆえ分析できない。

〔中略〕

私か言うのは、美を眺め鑑賞するのが人生の主たる仕事である人のことである。この連中には、尊敬すべき点ははとんどない。虚栄心が強く、自己満足の輩である。人生の実務的な仕事には不向きであり、経済的な理由から地味な仕事を黙々としている人を馬鹿にする。自分はたくさんの本を読み、たくさんの絵画を観たからというので、他の人より偉いと思っているのだ。現実から逃避するために芸術を楯にし、人間の生活に必要な活動を否定するために平凡なものには何であれ愚かしい軽蔑の目を向ける。麻薬常用者並みというか、いやもっと悪い。麻薬常用者なら、お山の大将になって仲間の人間を低く見たりはしないから。芸術の価値は、神秘主義者の考える価値と似て、どんな効果があるかにかかっている。単に楽しみを与えるというのであれば、どれほど精神的な楽しみであっても、あまり価値はない。せいぜいIダースの廿町とIパイントのモンラシェ酒くらいの価値しかない。もし美が癒し効果を持つなら、それはそれで結構。世の中は回避できない悪ばかりだから、人が一休み出来る避難所みたいなものがあれば有難い。ただし、悪から逃れるのではなく、休んでから力を盛り返して悪と対決しなくてはならない。というのは、芸術が人生における大きな価値の一つであるのなら、人間に謙虚、寛容、英知、雅量を教えるべきなのだ。芸術の価値は美でなく正しい行為である。


 美が人生の大きな価値だというのなら、美がそれを味わうことの出来る美的感覚を持つ階級のみの特権だというのは信じがたいことだ。エリートだけが分かち持っている感性が人生の必需品だと主張するのは変だ。だが、美学者はそのように主張する。白状するが、愚かな若造だった私は、芸術(そこに私は自然美も入れていた。これも絵画、交響曲と同じく、明確に人が作ったものだと思っていたし、今もそう思う)が、人間の努力の最高の成果であり、人間存在を正当化すると考えていて、芸術が分かるのはエリートだけだと思うと、言うに言われぬ満足感を覚えたものだった。その後、かなり以前からこの考えは変だと気付いている。美が一部の人の専有物だとは信じられない。特殊な教育を受けた人にしか意味を持たないような芸術作品は、それを好む一部の連中と同じく、くだらないと思いたい。芸術は皆が楽しめる作品である場合にのみ偉大であり、意味を持つ。一部の限られた一派の芸術は遊びである。ところで古代芸術と現代芸術の間にどうして区別をつけるのかか、私には分からない。あるのは芸術のみであるのに。芸術は生き物である。芸術作品の歴史的、文化的、考古学的な曰く因縁を考察することによって、作品に命を与えようとする試みは無意味である。ある彫像を作ったのが古代ギリシヤ人であろうと現代フランス人であろうと、そんなことはどうでもいい。大事なのは彫像が今ここで人に美的感動を与え、感動によって人を仕事へと駆り立てるということである。もし芸術作品か、自己耽溺や自己満足の機会を与える以上のものであろうとするのなら、人の性格を強め、人を正しい行動に一段と適するようにさせなくてはならない。とすると、そこから得られる結論は、私の好まぬものだが、次のように認めざるを得ない。即ち、作品は成果によって価値を問われるべきであり、成果が上がらなければ価値はないのである。芸術家がよい成果を得るのは、成果を狙わないときだという。


 このことは事実として認めるしかないらしいが、奇妙な話であり、私には何故だか不明である。芸術家は、彼が説教していると気付いていないときに最も印象的な話をする。ミツバチも自分の目的のためにロウを作るのであって、人間が様々な目的に利用することには気付いていない。


サマセット・モーム『サミング・アップ』行方昭夫訳(岩波文庫)76章「美」より


posted by pengiin at 09:00| 東京 ☁| Comment(0) | 図書と文庫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]